2022年の春、私は、社命により、生まれてはじめて本州北端、津軽半島に住まうこととなった。出張のみならず、プライベートでも県内各地を訪れ、青森を体験している。私はとても幸運な人間である。青森の風土、人、文化は、宮城出身の同じ東北人の私を、十分すぎるほど楽しませ、私の人生を豊かにしてくれている。青森に異動命令をもらったとき、周囲の同僚から「遠くて、大変ですね」と同情を含んだ言葉を多くかけられ、今でもそのように思われている。しかし、私は言いたい。青森には、一度住んだ方がよいと。
青森での生活が1年以上経過し、感動したことや体験したことを記事にまとめ、これまで社内限定で公開してきた。けれども、青森への愛がどんどん大きくなるにつれ、もう少し広く青森の魅力を発信したいと思うようになった。本ブログは、子供の自宅学習をテーマとして始めたため、こうした方針の変更は、ブログの品質を毀損することになるのであろう。しかしながら、もとより、品質という言葉を使うほどの代物ではない。1人でも多くの人に、青森への関心をもっていただき、青森を訪れていただければ、満足である。
私が入社した時代は「超」就職氷河期と言われる時代であった。バブル崩壊後、企業は人件費を抑制するために採用を絞った。1994年の流行語大賞に「就職氷河期」がノミネートされた。その後、金融不安やITバブル崩壊、M総理の誕生と我が国はカオスの様相を呈し、2000年頃に「超」が付加されるに至った。
内定式後に、勤務地の希望提出が求められた。私は迷わずに「青森県」の札を第一希望で入れた。社会人生活を新しい環境でスタートしたかったため、県のこだわりはなかったが、もし希望が通るのであれば生活してみたい土地があった。それが青森であった。
私が高校生の時、青森から世界的なニュースが発信された。三内丸山から大規模集落跡が発見されたというものであった。歴史を学び、一東北人として、上方への対抗、地域愛を育んできた高校生にとり、古代の話とはいえ大変誇らしいニュースだった。このときから、「青森はユニークな場所」という思いを抱くようになる。
初任地は、残念ながら青森ではなかった。その後、会社員人生二十数年を経て、ようやく2022年に青森の勤務希望が叶ったのである。
青森の生活で感動したことや体験したことを発信し、微力ながら、青森に恩返しをしたい。
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