<自転車の旅>青森県外ヶ浜町に行ってみました

青森

 

2023年の3月中旬、雪解けをまって久方ぶりに自転車での小旅行を敢行した。津軽半島の右舷を北上する、というだけの、計画性の無い、そしてたいそう贅沢な旅である。そう、私は、太宰の小説「津軽」に触発されたのだ。

青森市の港町方面から堤川を越え、青森ベイブリッジに向かった。ここは、青森を訪れた観光客が青森駅を降りると、改札に向かう通路の窓から、必ず写真を撮影する橋だ。青空と青い海原を背景に、何本もの鋼鉄線が美しい三角形を描き、ベイエリアをシャープで近代的な雰囲気にしてくれている。全長は約2kmほどである。津軽方面に出張に行くとき、いつも車で通過している。自転車で越えるのは初めてであった。自然、上り坂のため立ちこぎとなる。左手に、建て替え中の青森駅ビルを見下ろせる。いつもは助手席に乗せられているため見えないが、その日はゆっくりとした自転車の旅であったため、右手側にあるアスパムも見下ろすことができた。存外大きい施設である。早くも息が上がり、先行きが案ぜられたが、このような弱い意志では業務目標の達成は覚束ないと、ペダルを強く踏み込んで前にすすんだ。すぐに幸せな下り坂が待っていた。

現場から取り寄せた情報では、蟹田より北側は商店が無いそうだ。あらかじめ食料を準備しておく必要があった。油川のセブンイレブンで水と軽食を調達した。これが田酒で有名な西田酒造かと横目で見やりながら国道280号線を北上した。

青森から蟹田を通り、三厩に至る街道は松前街道という。これは松前藩の参勤街道であったことに由来する。古くは源義経がここをとおって蝦夷地えぞちへ渡ったという伝説もある。街道として整備されたのは徳川幕府が参勤交代の制を設けてからである。この道を数年に一度徒歩で江戸まで上らせるとは、なんと陰湿で鬼畜な制度であったことか。

蟹田では観瀾山かんらんざんにのぼった。太宰が友人のN氏と花見の宴を開いた場所である。青森湾の向こうに夏泊岬がみえ、また平舘海峡をへだてて下北半島がすぐ間近に見えた。温暖な地域の人にとり、津軽の海といえば風雪ふうせつ吹きすさぶ、暗澹あんたんとした海を想像するかもしれない。これは津軽海峡冬景色を作詞した阿久悠先生に原因の一端はあろう。その日の松前街道の海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く透きとおり、日の光が海面をおどる、平和で穏やかなものであった。道すがら、軽トラックで港に乗り付けるお父さん、籠を重ねているお母さん、協働して漁船を引き上げる人たちを目にした。漁業を営む人々が、梵珠ぼんじゅ山脈に端を発する清らかな河川からとうとうと流れ込む雪解けの水とともに、活発に躍動する様子を眺めることができた。

空腹が感ぜられてきたため食事をする場所を探すが、行けどもどこにも食事処が見当たらない。仕方なく平舘まですすみ、不安な心持でラーメン店「旅路」へ向かった。

ようやく到着してみると、残念ながらこの時期は冬季のため閉店していたことから、数キロメートル手前にあったレストラン「だいば」へ戻った。

途中の松林にはかつて弘前藩が設置した砲台の名残を目にすることができる。八甲田雪中行軍といい、この台場といい、青森はロシアの影響を色濃く残している。

自転車を店の壁に立てかけ、店内に入った。お水とお茶を持ってきてくれた若い女性が

「ひらめの握り2貫で150円です。よかったらどうぞ」

と声をかけてくれた。ここでは高級魚ヒラメが、解凍びんちょうまぐろと同じ扱いである。迷ったあげく、私はお刺身付きの名物「いかバーグランチ」を頼んだ。さすが名物と言われるだけあり、おいしかった。ヒラメとソイの刺身も新鮮であった。手前の小鉢は鯛の味噌和えである。疲れた身体に染み渡る味であった。帰路のエネルギーは十分補給できた。

往路の穏やかさとは一転、復路は大変苦しいものとなった。向かい風で自転車が進まない。まだ蓬田よもぎだマルシェか、ようやく後潟うしろかたか、と地名ばかり頭の中で反芻しながら残りの道程を想像する。往復100kmは私には限界を超えていたようだ。途中、取引先の工事車両が私を追い抜いて行った。思わず手をあげて自転車を積んでもらおうかと思ったが、一瞬のことであり、気づくと車両は住宅地の中へ消えていった。

なんとか油川までに到着したものの、青森駅を西口から東口へ渡る体力は、もはや私には残っていなかった。私は、西口にあるモスバーガーに倒れこむように入ると、力弱い、乾いた声で、照り焼きバーガーとメロンソーダを注文した。炭酸がのどに痛かった。

自転車の旅は、私を疲労困憊にした一方で、ペダルを踏むこと一心に、頭の中を空っぽにリフレッシュすることができた。大変有意義な時間を過ごすことができた。

かつて五所川原、金木といった広大な津軽平野に住む人々から、梵珠ぼんじゅ山脈の向こう側、いわゆる外ヶ浜エリアは「カゲ」と呼ばれていたそうである。何度も繰り返される痛ましい飢饉の歴史と、そう無関係ではあるまい。たしかに、五所川原にくらべて家屋の規模は小さく、経済的に厳しい時代を経てきたことが伺える。しかしながら、そこには、海に根差した、豊かでたくましい生活があった。普段、企業に勤め、限られた人と、企業の論理に従って生きているだけの私にとって、これも世界を構成する一要素だと、当たり前のことをあらためて認識する機会となり、それは私の視野を広くした。こうした地域の隅々まで安定したライフラインを送り届ける公益事業の意義を改めて認識するとともに、青森の風俗を知る良き機会となった。

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