突然、46歳から1年半、TOEICに取り組んでみた(1)

英語勉強

突然、46歳からTOEICの勉強をはじめ、理由もなく目標を900点と掲げ、その先に具体的なビジョンがあるにも関わらず、日常生活のあらゆる場面で、ひたすら隙間時間を見つけ出し、それを如何にTOEICに投入してきたか。備忘録として記事を書くものです。

わたしのスペック

カーラジオからドリカムの『LOVE LOVE LOVE』や福山雅治の『HELLO』が流れていた1995年、私はとある地方の旧帝大工学部に進学した。

私の生まれた田舎は地方都市の東端に位置した。市内では都心から最も遠く、最も太平洋に近い地域である。幼稚園から小学校まで1クラスで、メンバーも同じであった。のちに差別用語と分かったが、『〇〇部落』と呼ばれていた。

田舎であるから素晴らしい地域コミュニティが存在した。子供は親や家族だけではなく、地域の大人も育てる。他人の子供でも悪いことをしたらきちんと指導し、それが親同士のトラブルになることはほぼなかった。ゴシップ情報が早く回りすぎるという負の側面もあるが、そうした機能が、常識的なふるまいから逸脱し、コミュニティからの信頼を毀損しないよう人々を制御する役割を担っていた。

周囲に大学を出た大人はおらず、今振り返ると、将来のキャリアプランにかかる、都会の子供との情報の非対称性は甚だしいものがあった。自宅は兼業農家であり、田畑を両方やっていた。友達と遊ぶよりも祖母の手伝いをするのが当たり前であり、稲作は土づくり・育苗から、稲刈り後のバッタ捕獲(貴重なたんぱく源として食料にした)、畑作については様々な野菜の栽培、ビニルハウスの構築、そして年末の寒風吹きすさぶ中での大根干しを手伝った。これらは、小学校から大学生まで、毎年のルーティンであった。

こうした田舎の中学生が都会の私立高校に進学したため、先生の言うことはすべて信じ、素直に受け入れた。理系クラスであったため、受験勉強はひたすら旧帝大・早慶の数学と物理の過去問に取り組むことが中心であった。

親は両方高卒であり、大学の話は全く通じない。周囲が東京の私立大を受験しているなか、私は滑り止めを一切受けさせてもらえなかった。父曰く、新幹線代、ホテル代がかかるためだという。国立大に合格後、自宅での宴のなかでもう一つの理由を告げられた。東京の大学に行かせるには、田んぼを売らなければならず、そうなると、生活ができなくなるためだった。致し方ないことだ。

高校の友達は、理系人材らしく、英語嫌いの人が多かった。しかしながら、なぜか私は嫌いではなかったので、授業の予習は欠かさず行った。具体的には、教科書の本文を書き写し、辞書をひいて日本語訳を書いた。これは、高校入学時に英語の先生から言われたタスクである。

これ以外には、センター試験対策で桐原書店の文法穴埋め問題をひたすら暗記していた記憶がある。5文型の概念については、そのことを覚える必要性を全く理解できなかった。長文読解は単語の意味と関係代名詞の知識からなんとなく日本語に訳していた程度のレベルであった。少し背伸びをして、英英辞典を買ったのであるが、一つの単語を調べると、例文の中の単語の意味が分からず、また調べると新たな不明単語が出現し、そして結局のところ、英和辞典をひくことに帰結するのであった。まったく予習が進まないため、購入後しばらくして英英辞典は本棚の端に大切に封印された。

私の高校には、夏休みの1ヵ月間、米国にホームステイできるスキームがあった。費用は60万円くらいだった。仲の良かった友達が参加するというので、一応親にお伺いを立ててみたが、我が家にはそんな余剰資金はないと一蹴された。帰国した友達が『ターミネーター2』を映画館で観たと得意げに話していた。どうせ理解できなかっただろうと思いつつ、うらやましかった。

大学でも、英語は授業以外では勉強をしたことはなかった。大学院にすすみ、先行研究の調査で英語の研究論文を読むようになった。専門領域であれば、一応読めるようにはなった。しかし、リスニングやスピーキングの勉強は皆無であった。

修士を出て、24歳で企業に就職した。入社してすぐに、会社から全員がTOEICを受験させられた。650点くらいだったと思う。周囲からすごいねと言われた。そこから、30歳になるまで、軽く英語の勉強を続けた。NHKラジオのやさしいビジネス英語だった気がする。当時はラジオアプリなど存在しなかったため、時間を合わせ、一発勝負で聴いていた。今思うと巻き戻しができないリスニング勉強は、著しく効率が低かった。仕事でまったく英語が必要でないのに、なぜ私は英語の勉強をしていたのだろう。730点まで上がったところで、他の専門の資格勉強に関心が向き、それ以来、46歳になるまで、英語の世界から全く離れることとなる。

わたしの英語スペックはこんなものです。次の記事では、英語の勉強を再開したきっかけについて書きます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました